目次
第一章 暴力(ヒュブリス)と理性――テキスト(textus)の解釈をめぐって
序 悲劇的時代と解釈学的理性
一 プロメテウスの火とヒュブリス(暴力・傲慢)
二 E・レヴィナスとテキスト解釈
三 ギリシアの自然(physis)の哲学
四 聖書における火,気
間奏
第二章 「反=志向的」理性が披く「在るもの(エンス)」の地平――トマス・アクィナスの能動知性論を手がかりに
序
一 トマス哲学における知性および「在るもの」「存在」をめぐって
二 現代における理性の状況についての哲学史的デッサン
三 トマス的理性の現代的意義
間奏
第三章 協働態的公共圏の諸相とペルソナ――トマス・アクィナスの共通善思想を手がかりに
序
一 ペルソナ(persona)の成立と善の地平
二 公共的政体・協働態の成立と共通善
三 宇宙的秩序としての共通善あるいは普遍的善(bonum universale)
四 至福(Beatitudo)的共通善
五 ペルソナ的小協働態――大学と宗教的協働態
間奏
第四章 身体を張る(extendere)アウグスティヌス――『告白』におけるdistendere, continere, extendereと協働態の誕生
序
一 アウグスティヌスにおける生の分散(distendere)とContinentiaの女神
二 回心(continere)の実相――霊的感覚による「愛」の体験
三 三種の欲望の吟味からの協働と根源悪身体的continere
四 Continereする「仲介者」キリストと身を張って生きる(extendere)アウグスティヌス
間奏
第Ⅱ部 神の似像「男・女」――暴力にも拘らず
第五章 神の似像としての「男・女」協働態――「創世記」(一~三章)の物語り論的解釈
序
一 神の似像(イマゴ・デイ)と男・女(一・1~二・3)
二 一つの肉(バーサール)としての〈男・女〉と神の掟(二・4~25)
三 根源悪とその超克の可能性としての〈男・女〉
間奏
第六章 花婿と花嫁との無限な協働――ニュッサのグレゴリオスの『雅歌講話』から
序
一 アレゴリー解釈の特徴とグレゴリオスによるその実践の結実『雅歌講話』の思索
二 アレゴリー解釈と現代
三 ジュリア・クリステヴァ(1941~)『愛の諸物語』より「対話」
間奏
第七章 愛智的ペルソナと協働的エチカの成立――ニュッサのグレゴリオスの『モーセの生涯』と『説教集?を手がかりに
序
一 『モーセの生涯』の歴史と観想
二 『説教』におけるアレテーの実践
間奏
第Ⅲ部 暴力の只中で――エヒイェロギアとエヒイェ的人格
第八章 文明史の終末論的転換期とエヒイェロギア
序
一 アウシュヴィッツの虚無的な根源悪性
二 FUKUSHIMA(第二のプロメテウスの火)と巨大科学
三 存在=神=論――全体主義の思想的温床
四 エヒイェロギアの構想――全体主義の超克に向けて
間奏
第九章 マカリオス(幸い)の地平とエヒイェ的人格――苦難と安楽の彼方
序 問い
一 幸福と受難の諸相
二 受難への直面
三 手がかりとしてのホセア受難の物語り――他者へ向けて
四 山上の垂訓――ノマド(差異化・脱在化)的な「神の国」の物語り
間奏
第十章 相生の旅人・シャルル・ド・フーコーの生涯――イスラム教・キリスト教・ユダヤ教の間(あわい)に生きた人
むすびとひらき
あとがき
初出一覧/索引
内容説明
今日,人間は地球規模の暴力(ヒュブリス)に見舞われている。アウシュヴィッツやFUKUSHIMAに象徴される暴力は,アフリカ地域の争乱,中近東の荒野や諸都市,福島の森林農地,化学物質による汚染など,至る所でその猛威を振るっている。それらの暴力は,人と人との親愛,文化圏相互の恊働,そして人びとを寸断し,他者性は忘却される。こうした現象は,金融資本主義,大国の政治戦略,技術支配(巨大原子力科学),大衆操作のマスメディア,IT産業などを集約する経済=技術=官僚(エコノ=テクノ=ビュロクラシー)機構の全体主義的支配に支えられ,そこには人間中心主義という傲慢(ヒュブリス)が伏在している。
ヒュブリスとは古来,暴力と傲慢を意味し,古代神話やヘブライ・キリスト教の伝統では人間が「神の如くなる」傲慢不遜と理解され,すでに古代の知恵は現代文明を予見していた。著者はニュッサのグレゴリオスやアウグスティヌス,そしてトマスなどのテキストを通して暴力を突破する恊働の道を探る。
現代の根源悪である人間の虚無的暴力と自己神格化を超克する思想的地平を開くために,著者は生成と他者への自己解放の思想エヒイェロギアを構想し,自同性の解体と新たな恊働態の構築を試みる意欲作である。