ホーム > 西洋古典学の明日へ
目次
はしがき(大芝芳弘)
韻律学と西洋古典学――私の韻律に関する論文の解説とあとがき(逸身喜一郎)
逸身喜一郎教授年譜・業績一覧
西洋古典文学・ギリシア
冥界のヘーラクレース──ミーノース~ヘーラクレース場面(Od.11.565?627)に関する一考察(佐野好則)
称賛の利得──ピンダロス『イストミア第2歌』1?12行(小池 登)
現実と仮想の狭間──ソポクレース『オイディプース王』219?23,255?8行(小林 薫)
メガラの男の悲哀──Ar.Ach.ll.719?816の分析(戸部順一)
フィレータースの物語(中谷彩一郎)
西洋古典文学・ラテン
キケローとコルニフィキウス──前44年~43年のコルニフィキウス宛書簡から(小池和子)
O fons Bandusiae──Horatius, Carm.3.13(大芝芳弘)
梟と鹿──オウィディウス『変身物語』第11巻24?27行の直喩について(日向太郎)
ウェレイユス・パテルクルスとワレリウス・マクシムスの典拠の利用と文体について(吉田俊一郎)
プテレラースの死とケンタウロスの比喩――Statius, Thebais Ⅶ.632?639(山田哲子)
西洋古代哲学
アリストファネスのプロディコス──喜劇における思想の揶揄への覚え書(納富信留)
プロクロスのプラトン解釈法──『「アルキビアデス」篇註釈』における推論特定手続きの問題(瀧 章次)
ストア派の「運命」概念の起源を辿る(近藤智彦)
道徳的発達と言語行為の相関──ヘレニズム期における「多分野交流」の一事例(神崎 繁)
セネカにおける自由の行為の修辞──『恩恵について』3.20.1 ingentia agat をめぐって(兼利琢也)
西洋古代史
ドラコンの意思殺人法における「永久追放」について(齋藤貴弘)
メネステウスとメネデイオス──ベンディス祭祀のアテナイ到来について(桜井万里子)
コースの部族──RO 62 箚(上野愼也)
ヒュポーモシアー──デーモステネース18番103節の解釈をめぐって(佐藤 昇)
世紀競技祭 ludi saeculares とアウグストゥス(島田 誠)
ローマ帝政後期の監獄──リバニオス第四五番弁論再考(田中 創)
西洋古典の影響と伝承
Gregorii Barhebraei carmen ‘Quod praestantes in hoc mundo odio haberi solent’(高橋英海)
ポッジョ写本再考(片山英男)
韻律学と西洋古典学――私の韻律に関する論文の解説とあとがき(逸身喜一郎)
逸身喜一郎教授年譜・業績一覧
西洋古典文学・ギリシア
冥界のヘーラクレース──ミーノース~ヘーラクレース場面(Od.11.565?627)に関する一考察(佐野好則)
称賛の利得──ピンダロス『イストミア第2歌』1?12行(小池 登)
現実と仮想の狭間──ソポクレース『オイディプース王』219?23,255?8行(小林 薫)
メガラの男の悲哀──Ar.Ach.ll.719?816の分析(戸部順一)
フィレータースの物語(中谷彩一郎)
西洋古典文学・ラテン
キケローとコルニフィキウス──前44年~43年のコルニフィキウス宛書簡から(小池和子)
O fons Bandusiae──Horatius, Carm.3.13(大芝芳弘)
梟と鹿──オウィディウス『変身物語』第11巻24?27行の直喩について(日向太郎)
ウェレイユス・パテルクルスとワレリウス・マクシムスの典拠の利用と文体について(吉田俊一郎)
プテレラースの死とケンタウロスの比喩――Statius, Thebais Ⅶ.632?639(山田哲子)
西洋古代哲学
アリストファネスのプロディコス──喜劇における思想の揶揄への覚え書(納富信留)
プロクロスのプラトン解釈法──『「アルキビアデス」篇註釈』における推論特定手続きの問題(瀧 章次)
ストア派の「運命」概念の起源を辿る(近藤智彦)
道徳的発達と言語行為の相関──ヘレニズム期における「多分野交流」の一事例(神崎 繁)
セネカにおける自由の行為の修辞──『恩恵について』3.20.1 ingentia agat をめぐって(兼利琢也)
西洋古代史
ドラコンの意思殺人法における「永久追放」について(齋藤貴弘)
メネステウスとメネデイオス──ベンディス祭祀のアテナイ到来について(桜井万里子)
コースの部族──RO 62 箚(上野愼也)
ヒュポーモシアー──デーモステネース18番103節の解釈をめぐって(佐藤 昇)
世紀競技祭 ludi saeculares とアウグストゥス(島田 誠)
ローマ帝政後期の監獄──リバニオス第四五番弁論再考(田中 創)
西洋古典の影響と伝承
Gregorii Barhebraei carmen ‘Quod praestantes in hoc mundo odio haberi solent’(高橋英海)
ポッジョ写本再考(片山英男)
内容説明
本書は東京大学文学部西洋古典学研究室の逸身喜一郎教授の定年退官を機に編まれた論文集である。
逸身教授はギリシア詩の韻律研究で世界的に活躍するとともに,ギリシア悲劇を中心とする研究や古典の翻訳,西洋古典文学の紹介など多岐にわたりわが国の古典学の研究と普及をリードしてきた。さらに多分野交流演習や共同研究など,西洋古典文学のみならず古代哲学や古代史の研究者と連携した研究を積極的に推進してきた。
本論文集は巻頭に逸身教授自身の韻律学研究に関する解説と古典学全般にわたる研究・著作活動を回顧する一文を置き,それに続けて氏の教育,研究に連なる研究者による古典文学,古代哲学,古代史など西洋古典学の第一線の研究論文23編を配した。
「書物に耳を傾けて,たいまつの火をリレーするがごとく,謙虚に本の命を次世代に託す,このことこそ西洋古典学の真髄かもしれない」と語られる教授の言葉は,わが国の人文科学研究が厳しい状況に置かれている今日,人文研究の王道を指し示すものである。本書はその実践として広く研究者に刺激を与えるであろう。
逸身教授はギリシア詩の韻律研究で世界的に活躍するとともに,ギリシア悲劇を中心とする研究や古典の翻訳,西洋古典文学の紹介など多岐にわたりわが国の古典学の研究と普及をリードしてきた。さらに多分野交流演習や共同研究など,西洋古典文学のみならず古代哲学や古代史の研究者と連携した研究を積極的に推進してきた。
本論文集は巻頭に逸身教授自身の韻律学研究に関する解説と古典学全般にわたる研究・著作活動を回顧する一文を置き,それに続けて氏の教育,研究に連なる研究者による古典文学,古代哲学,古代史など西洋古典学の第一線の研究論文23編を配した。
「書物に耳を傾けて,たいまつの火をリレーするがごとく,謙虚に本の命を次世代に託す,このことこそ西洋古典学の真髄かもしれない」と語られる教授の言葉は,わが国の人文科学研究が厳しい状況に置かれている今日,人文研究の王道を指し示すものである。本書はその実践として広く研究者に刺激を与えるであろう。