ホーム > 中世哲学講義 第五巻
目次
凡例
聖書略号
山田晶『中世哲学講義』について
昭和五六年度(一九八一年)前期講義
第一章 第一に認識されるものについての問題(一)――「エンス」か「エッセンチア」か
第二章 第一に認識されるものについての問題(二)――「エンスのエッセンチア」essentia entis
第三章 第一に認識されるものについての問題(三)――エッセンチアの在り場としてのエッセの認識
第四章 第一に認識されるものについての問題(四)――神のエッセの認識
第五章 第一に認識されるものについての問題(五)――第一真理としての神
第六章 第一に認識されるものについての問題(六)――問題の要約と展望
第七章 第一に認識されるものについてのトマス説(一)――「現生における」という知性認識の条件
第八章 第一に認識されるものについてのトマス説(二)――神の本質が知性の第一認識であるとする説の反駁
第九章 第一に認識されるものについてのトマス説(三)――光の説の歴史的由来,能動知性
第一〇章 第一に認識されるものについてのトマス説(四)――能動知性の二つの解釈
第一一章 第一に認識されるものについてのトマス説(五)――アヴィセンナの能動知性の解釈
昭和五六年度(一九八一年)後期講義
第一二章 アヴィセンナの能動知性の解釈(一)――能動知性のはたらき,注入と照明
第一三章 アヴィセンナの能動知性の解釈(二)――アリストテレス的要素と新プラトン的要素
第一四章 アヴィセンナの能動知性の解釈(三)――アヴィセンナとアウグスティヌスとの結合
第一五章 アヴィセンナの能動知性の解釈(四)――アヴィセンナ的アウグスティニスム形成の歴史的背景
第一六章 アヴィセンナの能動知性の解釈(五)――アヴィセンナ的アウグスティニスムの問題性,キリスト教との関係において
第一七章 アヴィセンナの能動知性の解釈(六)――アヴィセンナ的アウグスティニスムの問題性,アウグスティヌスとの関係において
第一八章 アヴィセンナの能動知性の解釈(七)――アウグスティヌス『ソリロクィア』における魂の不死の証明のこころみ
第一九章 アヴィセンナの能動知性の解釈(八)――不死の論証に対するアウグスティヌスの疑問
昭和五七年度(一九八二年)前期講義
第一章 神の存在論証におけるアンセルムスとトマス(一)――序論
第二章 神の存在論証におけるアンセルムスとトマス(二)――トマスの批判
第三章 トマスのアンセルムス批判(一)――トマスはアンセルムス論証のいかなる点を批判するか
第四章 トマスのアンセルムス批判(二)――『真理論』第一〇問の問題とそこにおける第一二項の意味
第五章 トマスのアンセルムス批判(三)――アウグスティヌス『三位一体論』の心理学の解釈としてのトマスの『真理論』第一〇問
第六章 『真理論』第一〇問について(一)――アウグスティヌスの精神および記憶のトマス的解釈
第七章 『真理論』第一〇問について(二)――精神における二様の似像
第八章 『真理論』第一〇問について(三)――精神における似像の三つの段階
昭和五七年度(一九八二年)後期講義
第九章 トマスの神認識についての説(一)――神の認識に関する諸問題
第一〇章 トマスの神認識についての説(二)――『真理論』第一〇問一一 ― 一三項における神認識の主体としての人間の状態
第一一章 トマスの神認識についての説(三)――『真理論』第一〇問一二項。「神在り」の認識の問題
第一二章 トマスの神認識についての説(四)――神存在の認識可能性についての三つの説
第一三章 神存在の認識可能性とその根拠(一)――自明なる命題の種類
第一四章 神存在の認識可能性とその根拠(二)――神と被造物における存在と本質
昭和五八年度(一九八三年)前期講義
第一章 トマスの神存在論証における《レス》の意味――神の存在の認識に到る道についての三つの説
第二章 存在を論証するとはいかなることであるか(一)――可視的なる「もの」の存在の「明示」としての論証
第三章 存在を論証するとはいかなることであるか(二)――「しるし」と「もの」との関係,人工的しるしについて
第四章 「しるし」による「もの」の存在の明示(一)――自然的しるしとそれによる存在明示の仕方について
第五章 「しるし」による「もの」の存在の明示(二)――自然的「しるし」と「もの」との存在的関係
第六章 「しるし」による「もの」の存在の明示(三)――「しるし」と「もの」とが存在的に区別されている場合
第七章 「しるし」による「もの」の存在の明示(四)――「しるし」に対応する「もの」がまだ存在しない場合
昭和五八年度(一九八三年)後期講義
第七章[続き]「しるし」による「もの」の存在の明示(四)――「しるし」に対応する「もの」がまだ存在しない「もの」の「しるし」である場合
第八章 「しるし」による「もの」の存在の明示(五)――現在が過去の「しるし」であることと現在が未来の「しるし」であることとの本質的相違
第九章 「しるし」による「もの」の存在の明示(六)――未来的存在の非必然性の理由
第一〇章 「しるし」による「もの」の存在の明示(七)――人間存在の有する非必然性
第一一章 「しるし」による「もの」の存在の明示(八)――人間存在の非必然性の根原としての自由
後記
中世哲学講義総目次
山田晶参照文献一覧
索引(人名・聖書)
聖書略号
山田晶『中世哲学講義』について
昭和五六年度(一九八一年)前期講義
第一章 第一に認識されるものについての問題(一)――「エンス」か「エッセンチア」か
第二章 第一に認識されるものについての問題(二)――「エンスのエッセンチア」essentia entis
第三章 第一に認識されるものについての問題(三)――エッセンチアの在り場としてのエッセの認識
第四章 第一に認識されるものについての問題(四)――神のエッセの認識
第五章 第一に認識されるものについての問題(五)――第一真理としての神
第六章 第一に認識されるものについての問題(六)――問題の要約と展望
第七章 第一に認識されるものについてのトマス説(一)――「現生における」という知性認識の条件
第八章 第一に認識されるものについてのトマス説(二)――神の本質が知性の第一認識であるとする説の反駁
第九章 第一に認識されるものについてのトマス説(三)――光の説の歴史的由来,能動知性
第一〇章 第一に認識されるものについてのトマス説(四)――能動知性の二つの解釈
第一一章 第一に認識されるものについてのトマス説(五)――アヴィセンナの能動知性の解釈
昭和五六年度(一九八一年)後期講義
第一二章 アヴィセンナの能動知性の解釈(一)――能動知性のはたらき,注入と照明
第一三章 アヴィセンナの能動知性の解釈(二)――アリストテレス的要素と新プラトン的要素
第一四章 アヴィセンナの能動知性の解釈(三)――アヴィセンナとアウグスティヌスとの結合
第一五章 アヴィセンナの能動知性の解釈(四)――アヴィセンナ的アウグスティニスム形成の歴史的背景
第一六章 アヴィセンナの能動知性の解釈(五)――アヴィセンナ的アウグスティニスムの問題性,キリスト教との関係において
第一七章 アヴィセンナの能動知性の解釈(六)――アヴィセンナ的アウグスティニスムの問題性,アウグスティヌスとの関係において
第一八章 アヴィセンナの能動知性の解釈(七)――アウグスティヌス『ソリロクィア』における魂の不死の証明のこころみ
第一九章 アヴィセンナの能動知性の解釈(八)――不死の論証に対するアウグスティヌスの疑問
昭和五七年度(一九八二年)前期講義
第一章 神の存在論証におけるアンセルムスとトマス(一)――序論
第二章 神の存在論証におけるアンセルムスとトマス(二)――トマスの批判
第三章 トマスのアンセルムス批判(一)――トマスはアンセルムス論証のいかなる点を批判するか
第四章 トマスのアンセルムス批判(二)――『真理論』第一〇問の問題とそこにおける第一二項の意味
第五章 トマスのアンセルムス批判(三)――アウグスティヌス『三位一体論』の心理学の解釈としてのトマスの『真理論』第一〇問
第六章 『真理論』第一〇問について(一)――アウグスティヌスの精神および記憶のトマス的解釈
第七章 『真理論』第一〇問について(二)――精神における二様の似像
第八章 『真理論』第一〇問について(三)――精神における似像の三つの段階
昭和五七年度(一九八二年)後期講義
第九章 トマスの神認識についての説(一)――神の認識に関する諸問題
第一〇章 トマスの神認識についての説(二)――『真理論』第一〇問一一 ― 一三項における神認識の主体としての人間の状態
第一一章 トマスの神認識についての説(三)――『真理論』第一〇問一二項。「神在り」の認識の問題
第一二章 トマスの神認識についての説(四)――神存在の認識可能性についての三つの説
第一三章 神存在の認識可能性とその根拠(一)――自明なる命題の種類
第一四章 神存在の認識可能性とその根拠(二)――神と被造物における存在と本質
昭和五八年度(一九八三年)前期講義
第一章 トマスの神存在論証における《レス》の意味――神の存在の認識に到る道についての三つの説
第二章 存在を論証するとはいかなることであるか(一)――可視的なる「もの」の存在の「明示」としての論証
第三章 存在を論証するとはいかなることであるか(二)――「しるし」と「もの」との関係,人工的しるしについて
第四章 「しるし」による「もの」の存在の明示(一)――自然的しるしとそれによる存在明示の仕方について
第五章 「しるし」による「もの」の存在の明示(二)――自然的「しるし」と「もの」との存在的関係
第六章 「しるし」による「もの」の存在の明示(三)――「しるし」と「もの」とが存在的に区別されている場合
第七章 「しるし」による「もの」の存在の明示(四)――「しるし」に対応する「もの」がまだ存在しない場合
昭和五八年度(一九八三年)後期講義
第七章[続き]「しるし」による「もの」の存在の明示(四)――「しるし」に対応する「もの」がまだ存在しない「もの」の「しるし」である場合
第八章 「しるし」による「もの」の存在の明示(五)――現在が過去の「しるし」であることと現在が未来の「しるし」であることとの本質的相違
第九章 「しるし」による「もの」の存在の明示(六)――未来的存在の非必然性の理由
第一〇章 「しるし」による「もの」の存在の明示(七)――人間存在の有する非必然性
第一一章 「しるし」による「もの」の存在の明示(八)――人間存在の非必然性の根原としての自由
後記
中世哲学講義総目次
山田晶参照文献一覧
索引(人名・聖書)
内容説明
京都大学での昭和41年から58年まで18年におよぶ「中世哲学」講義を全5巻に収録,他に類のない貴重な記録である。
本巻では退職1年前の昭和56-58年度までの3年間の講義を収載する。「中世哲学の基本を特徴づけているものとは何か」という関心の下に継続された講義の最終巻となる。
人間知性が「第一に認識するのはエンスなのかエッセンチアなのか」という問いから始まる56年度の講義は,第一に認識されるのは「エンスのエッセンチアである」との答えが与えられ,その後に考察は存在の根原から認識(光)の根原としての神の認識へと向かう。
57年度はアンセルムスの神の存在証明に対するトマスの批判を吟味し,両者が神を「絶対に必然的に存在するもの」という共通の認識を持つとともに,違いも指摘した。
58年度は存在を論証するために,「もの」と「しるし」の考察を通して人間の行為を取り出し,行為の自由が検討されるとともに,それは「間」において成立するとされた。
講義では初めに立てられた問いに答えつつ,あらたな問いが出され,考察は広く深く展開していく。山田は答えを見出すだけでなく,常に途上にある「哲学すること」の現場を見せ,学生にその魅力を伝えながら「哲学すること」自体へと促していく。
読者が本講義に耳を傾け,キリスト教や中世哲学,さらにヨーロッパの思想的営為の多様な意味に触れたならば,故人にとってもそれに勝る喜びはないであろう。
本巻では退職1年前の昭和56-58年度までの3年間の講義を収載する。「中世哲学の基本を特徴づけているものとは何か」という関心の下に継続された講義の最終巻となる。
人間知性が「第一に認識するのはエンスなのかエッセンチアなのか」という問いから始まる56年度の講義は,第一に認識されるのは「エンスのエッセンチアである」との答えが与えられ,その後に考察は存在の根原から認識(光)の根原としての神の認識へと向かう。
57年度はアンセルムスの神の存在証明に対するトマスの批判を吟味し,両者が神を「絶対に必然的に存在するもの」という共通の認識を持つとともに,違いも指摘した。
58年度は存在を論証するために,「もの」と「しるし」の考察を通して人間の行為を取り出し,行為の自由が検討されるとともに,それは「間」において成立するとされた。
講義では初めに立てられた問いに答えつつ,あらたな問いが出され,考察は広く深く展開していく。山田は答えを見出すだけでなく,常に途上にある「哲学すること」の現場を見せ,学生にその魅力を伝えながら「哲学すること」自体へと促していく。
読者が本講義に耳を傾け,キリスト教や中世哲学,さらにヨーロッパの思想的営為の多様な意味に触れたならば,故人にとってもそれに勝る喜びはないであろう。