ホーム > パウロの「聖霊による聖書解釈」
目次
序論
第一章 西洋思想の根本的欠陥――実践の場からの反省
はじめに
1 日本人の教区神学生から学ぶ
2 西洋神学の五つの問題点
3 西洋キリスト教の没落と東洋宗教実践への傾倒
4 解決の試み――「道(キリスト)の奥義の形而上学(テオ・ロギヤ)」の素描
予備的参究 身読的解釈学
第二章 身読的解釈学の解明
はじめに
1 『正法眼蔵』のテキストからその「生存地平」へ
2 「現成公案」の文書からパロール的状況(発語の現場)への還元
3 「現成公案」と聖書を坐禅の実践を通して身読する
第三章 創世記二章の身読的解釈学
1 創世記二章の釈義
2 創世記二章7節の身読的解釈
3 道元思想との構造的類似性
4 創世記二7と「根源と礎」(『霊操』EX.23)の比較
5 私の身読的解釈の反省
第四章 身読的解釈学の最大の特性――行の解釈学的機能
1 道元の行の解釈学的反省
2 行の解釈学的機能の発見の画期的意義
3 『霊操』の聖書解釈と行の解釈学的機能
本論 パウロの「聖霊による聖書解釈」
第五章 パウロの受けたユダヤ教の遺産
1 ヘブライ的神観念
2 救いの歴史における言葉(d?b?r)の中枢的役割
3 救いの歴史における霊(r?ah)の中枢的役割
霊とは何か/霊の三つの特徴/霊の力という特徴の優位性/内面性と関係性/r?ahの原初的意味/ヤハヴェは創造主で,r?ah(超越的力)である/霊(息吹)=言葉が創造する/霊と神の創造的力の神学的省察――霊の重層構造と全体的思惟方法
第六章 パウロの聖霊経験の追経験
1 ローマ八・15-16の身読――「アバ,父よ」と叫ぶことによる聖霊経験
テキストの釈義と解釈/私の身読的解釈
2 Ⅰコリント一二1-3の解釈
釈義・解釈/身読的解釈学
第七章 パウロの「聖霊による聖書解釈学」
1 コリント前書二章の解釈
2 霊に教えられた言葉とは
3 パウロにおける象徴原語
4 「十字架の言葉」は象徴原語である
5 象徴と聖霊の協働
6 「霊的なことを霊的な出来事によって解釈する」とは
7 解釈学的な謎が解ける
8 行の解釈学的機能による更なる解明
9 道の活きの道理――行の解釈的機能による根拠づけ
10 「神の霊と力による証明」とは
第一章 西洋思想の根本的欠陥――実践の場からの反省
はじめに
1 日本人の教区神学生から学ぶ
2 西洋神学の五つの問題点
3 西洋キリスト教の没落と東洋宗教実践への傾倒
4 解決の試み――「道(キリスト)の奥義の形而上学(テオ・ロギヤ)」の素描
予備的参究 身読的解釈学
第二章 身読的解釈学の解明
はじめに
1 『正法眼蔵』のテキストからその「生存地平」へ
2 「現成公案」の文書からパロール的状況(発語の現場)への還元
3 「現成公案」と聖書を坐禅の実践を通して身読する
第三章 創世記二章の身読的解釈学
1 創世記二章の釈義
2 創世記二章7節の身読的解釈
3 道元思想との構造的類似性
4 創世記二7と「根源と礎」(『霊操』EX.23)の比較
5 私の身読的解釈の反省
第四章 身読的解釈学の最大の特性――行の解釈学的機能
1 道元の行の解釈学的反省
2 行の解釈学的機能の発見の画期的意義
3 『霊操』の聖書解釈と行の解釈学的機能
本論 パウロの「聖霊による聖書解釈」
第五章 パウロの受けたユダヤ教の遺産
1 ヘブライ的神観念
2 救いの歴史における言葉(d?b?r)の中枢的役割
3 救いの歴史における霊(r?ah)の中枢的役割
霊とは何か/霊の三つの特徴/霊の力という特徴の優位性/内面性と関係性/r?ahの原初的意味/ヤハヴェは創造主で,r?ah(超越的力)である/霊(息吹)=言葉が創造する/霊と神の創造的力の神学的省察――霊の重層構造と全体的思惟方法
第六章 パウロの聖霊経験の追経験
1 ローマ八・15-16の身読――「アバ,父よ」と叫ぶことによる聖霊経験
テキストの釈義と解釈/私の身読的解釈
2 Ⅰコリント一二1-3の解釈
釈義・解釈/身読的解釈学
第七章 パウロの「聖霊による聖書解釈学」
1 コリント前書二章の解釈
2 霊に教えられた言葉とは
3 パウロにおける象徴原語
4 「十字架の言葉」は象徴原語である
5 象徴と聖霊の協働
6 「霊的なことを霊的な出来事によって解釈する」とは
7 解釈学的な謎が解ける
8 行の解釈学的機能による更なる解明
9 道の活きの道理――行の解釈的機能による根拠づけ
10 「神の霊と力による証明」とは
内容説明
ヨーロッパで最先端の神学を学んできた著者の講義を,日本の神学生が理解できないのは何故か? この疑問から出発した著者の思索は禅修行を通して決定的な転回を経験し,その思想と生き方は西洋的から東洋的なものへと変わった。西洋哲学は理性により現実を概念・理念で客観的に把握し,身体・肉体を不問に付したため,人間や世界の普遍的側面は捉えるが,個としての人間・世界・神を捉えられず,「肉になられた御言葉」は神学的に解明されなかった。
「西洋哲学・神学は普遍的ではなく,西洋という地域に属する地方的な哲学・神学である」というエリアーデの言葉に共鳴し,行を媒介にした新たな解釈学〈身読的解釈学〉により,西洋神学と聖書の思想的相違を明らかにし,パウロの聖書理解の核心に迫る意欲作。
「西洋哲学・神学は普遍的ではなく,西洋という地域に属する地方的な哲学・神学である」というエリアーデの言葉に共鳴し,行を媒介にした新たな解釈学〈身読的解釈学〉により,西洋神学と聖書の思想的相違を明らかにし,パウロの聖書理解の核心に迫る意欲作。